子供に学んでほしいこと
述べたように、基本的に学習者自身は自分の学習する内容を知らないし、明確に選べないのです。特に学童期の子供はそうですね。
ところで、親なら誰でも「こんな子供に育ってほしい」という思いが多かれ少なかれあるでしょう。たとえば、私の考えを言えば、
○ 人間関係の構築のしかた
○ 信頼にたる人間として認められる条件
○ いつも選択肢を多く発見する能力
といったものは、子供たちにぜひ身に付けてほしい。最も勉強してほしい事柄です(もちろん、人によって考えは違います。違っていいんです)
ところが、その内容と、子供が実際に勉強している内容がどの程度一致しているのでしょうか。そのギャップがそのままにされていれば、当然ですが「こんなふうに育ってほしい」ように育つわけがありません。そういう視点でたとえば学校で習っている内容や、ふだん与えている躾やコミュニケーションの方法を顧みたらどうでしょう。実際には多くの子供は親が思っているようにではなく、学校の都合によっていいように育てられている、とさえ感じられます。
ただし、これは学校が悪いのではなく、第一義的には親が悪い。悪いとかいうよりも、実質的にそういった決定ができるのは、まず親であって、それ以外の誰も、特定の子供に対してそのような判断を行う権限も、責任も持ちえる立場にない。
また、間接的には、その子供を取り巻いているすべての大人達に少なからず責任がある。特に、最近よく議論されるように、子供の個性や、精神の自由といったものを大切にするという風潮に私は疑問を感じます。それは、親が子供に「何を教えるべきだと考えるか」ということより優先される問題ではない。反論もあるかと思いますが、正直言って私は今そう思っています。
フランス語ができない人が、フランス語で書かれた料理のメニューを渡されて、「何でも好きなもの注文してください」と言われても困るのです。「あなたの分も一緒に注文させていただいてよろしいですか?」と言ってくれる人のほうがよほど助かります。
それぞれの大人が子供に教えるべきこと、訴えることというのは、多少間違っていたり、偏っていたりしていてもいいんです。あいまいであることが一番子供を迷わせる。信じられるものを失ってしまう。たとえば、親の意見に逆らって自立しようとすることもできる。子供だってまったく無力ではないんです。最終的には自分で判断すべき時が来るんです。
しかし、そもそも親や周囲の大人たちの意見がぼんやりして、あるんだかないんだか分からないというような状態では、子供は賛成も反対もできないまま宙ぶらりんです。考えるきっかけがない。拠って立つ基準がない。
そして、学校というのは、そういった意味での「意見・主張」を提供することができない。(あえて言えば、学校の中にいる先生個人だったらできないこともないですが)学校という体制では、基本的に「間違いや偏り」は許されないからです。だから、公平で、均質で、中庸なものしか与えることができない。だから、当然にぼかす。人間が成長する上で一番必要な「多くの大人の意見を聞き、自分で選び取ること」を避けて通ります。
学校の勉強が、どうも腑に落ちないのはこのためです。
ところで、親なら誰でも「こんな子供に育ってほしい」という思いが多かれ少なかれあるでしょう。たとえば、私の考えを言えば、
○ 人間関係の構築のしかた
○ 信頼にたる人間として認められる条件
○ いつも選択肢を多く発見する能力
といったものは、子供たちにぜひ身に付けてほしい。最も勉強してほしい事柄です(もちろん、人によって考えは違います。違っていいんです)
ところが、その内容と、子供が実際に勉強している内容がどの程度一致しているのでしょうか。そのギャップがそのままにされていれば、当然ですが「こんなふうに育ってほしい」ように育つわけがありません。そういう視点でたとえば学校で習っている内容や、ふだん与えている躾やコミュニケーションの方法を顧みたらどうでしょう。実際には多くの子供は親が思っているようにではなく、学校の都合によっていいように育てられている、とさえ感じられます。
ただし、これは学校が悪いのではなく、第一義的には親が悪い。悪いとかいうよりも、実質的にそういった決定ができるのは、まず親であって、それ以外の誰も、特定の子供に対してそのような判断を行う権限も、責任も持ちえる立場にない。
また、間接的には、その子供を取り巻いているすべての大人達に少なからず責任がある。特に、最近よく議論されるように、子供の個性や、精神の自由といったものを大切にするという風潮に私は疑問を感じます。それは、親が子供に「何を教えるべきだと考えるか」ということより優先される問題ではない。反論もあるかと思いますが、正直言って私は今そう思っています。
フランス語ができない人が、フランス語で書かれた料理のメニューを渡されて、「何でも好きなもの注文してください」と言われても困るのです。「あなたの分も一緒に注文させていただいてよろしいですか?」と言ってくれる人のほうがよほど助かります。
それぞれの大人が子供に教えるべきこと、訴えることというのは、多少間違っていたり、偏っていたりしていてもいいんです。あいまいであることが一番子供を迷わせる。信じられるものを失ってしまう。たとえば、親の意見に逆らって自立しようとすることもできる。子供だってまったく無力ではないんです。最終的には自分で判断すべき時が来るんです。
しかし、そもそも親や周囲の大人たちの意見がぼんやりして、あるんだかないんだか分からないというような状態では、子供は賛成も反対もできないまま宙ぶらりんです。考えるきっかけがない。拠って立つ基準がない。
そして、学校というのは、そういった意味での「意見・主張」を提供することができない。(あえて言えば、学校の中にいる先生個人だったらできないこともないですが)学校という体制では、基本的に「間違いや偏り」は許されないからです。だから、公平で、均質で、中庸なものしか与えることができない。だから、当然にぼかす。人間が成長する上で一番必要な「多くの大人の意見を聞き、自分で選び取ること」を避けて通ります。
学校の勉強が、どうも腑に落ちないのはこのためです。
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- リンブ:結局は・・・な( ̄ー ̄)ニヤリ (11/26)
- こんぺい:こんぺいでつ。 (11/18)
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